知ってる?高杉晋作 その一
2016年 12月 04日
あっという間に12月がやって来ました。
来年の課題詩、「焦心録後に題す」を
稽古なさっている時だと思います。
ただ、舞いの順番だけを覚えていませんか?
今日はその漢詩をレクチャーしてみましょう。
焦心録後に題す
内憂外患 吾が州に迫る正に此れ
存亡危急の秋(とき)
唯 邦君の為 家国の為
焦心砕骨 又 何ぞ愁えん
でも!
「焦心録」について知るには
作者とその時代背景を知る事が大切です。
上の写真が作者、高杉晋作です。
え? 河童顔!
イケメンという人も多いのですよ~!
弟分の伊藤博文(後の初代総理大臣)は
晋作のことを
「動けば電雷の如く、発すれば風雨の如し
衆目駭然、敢て正視する者なし。
これ我が東行高杉君に非ずや」
と謳っています。
動けば雷電のようで
言葉を発すればまるで風雨のようである。
多くの人はただただ驚き、あえて正視する者すらいない。
これこそわれらの高杉さんなのである。
といった意味になります。
時は幕末
高杉晋作は長州(山口県)で生まれ
「松下村塾」で広く学問を修め
「松下村塾四天王」の一人と言われるほど
優秀な逸材だったそうです。
鎖国中の日本にペリー率いる
黒船が開国を求めて来航してきた後
晋作は四天王の久坂玄瑞や
弟分の伊藤俊輔らとともに
イギリス公使館を焼き討ちにしました。
Σ(・o・ノ)ノ!
(資料館の中で斜めに撮ったのでちょっと、不自然でごめんなさい。)
伊藤俊介というのは後の伊藤博文ですが
この頃は破天荒な晋作に引っ張りまわされて
よく、ひどい目にあっています。
彼らの過激な振るまいに
頭を痛めた長州藩は、晋作を江戸から呼び戻します。
この事件をきっかけに晋作は
東行(とうぎょう)と名乗り
勝手に10年間の休暇届を藩に出し
頭を剃り、坊さんになってしまうのでした!
一方、長州藩は、関門海峡において
「外国船を打ち払おう!」と
下関海峡を通る
フランス、オランダ、アメリカの商船に向けて
ドンパチと大砲を撃ち込みます。
すると、どうなったか…
砲撃を受けなかったイギリスまで誘って報復をしに
下関にやって来たのでした。
山口県
VS
フランス、オランダ、アメリカ、イギリス
という、絶対に勝てそうもない図です。
これを下関戦争と言います。
そして…
あっけなく、連合艦隊の報復に破れたのでした。
長州藩は、戦ってみて初めて
外国との圧倒的な兵力の差に気がついたのでした。
まさに
長州藩始まって以来の危機です!
ちょっと長くなりましたね。続きは次週に持ち越しです。
来週まで待てない人、も~っと詳しく知りたい人は
司馬遼太郎の「十一番目の志士」を読んで下さい。
by tati87-2016
| 2016-12-04 22:06
| 詩のこと